崇徳天皇の永治元年(1141) | 摂津国の住人、現宮司家の祖、小山田清寧(きよやす)が勧請 |
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元亀二年(1571) | 小山田清寧の子孫である浄円(当山派別当)が御神体を奉じ、小牛田村旧屋敷に住む |
天正三年(1575) | 祠を建て御神体を鎮め奉る |
寛文二年(1662) | 自円の孫、宥鏡の時、仙台藩において新たに小牛田駅を開設するに際して、南小牛田村町屋敷の地に社殿(間口9間・奥行4間)を造営・遷座 |
元文元年(1736) | 宥鏡6世の孫、尊順の時、村内で大火があり、類焼 |
元文五年(1740) | 社殿 再建 |
寛政四年(1792) | 尊順の孫、憲牛の時、社殿の改築を起工 同年、山神永代献膳碑建立 |
文化六年(1809) | 社殿造営完成 |
仙台藩領内外、宮城県はもとより東北一円にわたり広範囲に崇敬信仰を集めてきた山神社は、御鎮座より100年も経過しないうちに、現在の社殿より大きい(間口9間・奥行4間)の社殿を造営されたことからも、多くの方から熱心な崇敬信仰を集めていた事がうかがえます。 1700年代には代参講を結成し、現在に至っております。 明治になり、小牛田町の総氏神として、ありがたくも国(太政官布告)より指定を受けました。同時期、下小牛田鎮座の無各社日枝神社、西原鎮座の八幡神社、町屋敷鎮座の郷社日枝神社、山崎鎮座の神明社を合わせお祀りし、山神社は郷社に昇格致しました。 |
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明治四十一年八月 | 町内の大火事の際全焼 社掌・憲一郎、仮宮に御神体遷座 |
大正六年 | 火災後、社司・昇が境内地として現在地を取得 本殿・幣殿を造営、拝殿・社務所を仮設し大正6年12月26日遷座祭を斎行 |
同年十二月二十六日 | 遷座祭が斎行される |
昭和四年~九年 | 拝殿・参集殿を新築(昭和4年に拝殿、昭和9年に参集殿新築) 合わせて神域整備も行われる |
昭和五十四年 | 造営より半世紀の歳月を経た事で雨漏りが発生 社殿屋根銅板葺替工事を行う |
平成四年 | 平成御大典記念として、手水舎、透塀を造営 |
平成十一年 | 今上陛下御即位十年記念として社務所の造営事業を行う |
平成二十四年十月十二日 | 大鳥居建立 |
平成二十九年 | 遷座百年記念大祭 記念事業の概要 神前燈籠二十基参道に設置・殿内調度品新調・奉名碑設置 |
【御神体についての口伝】 |
「山神講」とは山の神様(木之花佐久夜毘売命)の御加護を祈願、祈願成就の際には神恩感謝の御礼参りをする信仰者の集まりです。
「山神講」には山の恵みの御加護を願う山林業(マタギ・材木店)・鉱山・温泉業など男性を主とした山神講
又、木之花佐久夜毘売命の御事蹟の安産・子授けの御加護を願う「代参婦人講」とがあります。
「代参講中」とは信仰者(部落)のどなたかが代表で参拝。部落では信仰者が集り、[掛軸]・[祠]・[石碑]の所に代表者が受けてきた御札・お供え物をして山の神様を遥拝(遠くから拝む)する信仰者の集まりです。
安産・子授けを願う掛軸
![]() 明治時代 |
![]() 大正時代 |
![]() 昭和時代 |
【時代と共に変遷する信仰形態と山神代参講】
1700年代の江戸時代から昭和初期の時代は経済的・交通機関・婦人の地位等の時代背景から、特に妊婦さんの参拝が叶わず、代表者が参拝する山神代参講が結成されました。代参講では、山の神様のご縁日の3月12日・10月12日に集会場などに集まり、海・山の幸や熟饌(餅・赤飯・煮しめなど加熱した物)を供え御加護を願い、その御下がりを頂きながら日頃の悩みを相談したり手振りから多くを学び楽しむコミュニケーションの場でもありました。
こうして、山神講は神恩感謝だけでなく、神事を通して日本の良き伝統文化・美風を継承する役割もになって来ました。しかし、高度成長で豊かになった近年は各家に車があり、婦人の地位が向上して、講で参拝するのではなく、個人で都合の良い時に参拝する信仰形態に変っています。
私達の祖先は四季のある島国の風土の中で自然の恵みに感謝し畏敬の念を抱きながら営んできました。
このような時代だからこそ、「山の神様」は御縁日に皆が集り、昔ながらの信仰を行い、神事を通して日本の良き伝統文化・美風を継承して来た「山神代参婦人講」が数多く残る事を祈念していることでしょう。
御詠歌とは、和歌や短歌に節をつけたもので、山神社では数々の御詠歌が残されています。
先に述べたように1700年代には男性を主とした【山神講】と婦人を中心とした【代参婦人講】が結成されておりました。大正・昭和の代までは山神講1千組、山神代参婦人講5千組余りの崇敬者が小牛田の地まで代参をし、講員は石碑を参拝記念に建立、又、石碑を通して遥拝(遠くから拝む)する信仰形態を継承してまいりました。
山の神信仰は、仙台藩の時代より篤い信仰があり東北一円、北海道まで広範囲に広まったことが各地に残る石碑から伺うことができます。
宮城県遠田郡美里町彫堂に残る石碑
岩手県西磐井郡平泉町長島石合【山神宮】
岩手県奥州市水沢羽田町外浦【天保七年 山神】
蒲生地区の人々は未曾有の3・11の震災で甚大な被害を受けましたが鎮守様(氏神)の再建に努められ、境内整備をして先人たちの祈りの心を継承している。
先祖代々の信仰の石碑の数々をがれきの山から大切に取り出し、建立されています。
その中に安産の神「山神」の石碑が今の時代も地域の人達に見守られ立ち続けておます。
宮城県仙台市宮城野区蒲生高砂神社内【山神】
宮城県仙台市宮城野区南蒲生神明社【山の神】
震災後、総代の遠藤喜一が御影石の石碑奉納 平成23年3月11日
宮城県仙台市宮城野区大和神社(和田大明神)【山神】
1661年、蒲生領主和田織部房長は多賀城紅葉山の館に氏神として伏見稲荷大社の神様を分霊し、勧請した。
和田氏は奈良県出身なので「大和神社」と称した。
文政3年(1820年)頃から
「山神」「小牛田」「文政3年」「赤子を抱っこした像」などが彫られた石碑を建立し
安産の神「小牛田の山の神様」も合わせて信仰した。
明治になり和田新田地域の鎮守の神として寄進され今日に至る。
高度成長期、昭和30年代の末期から40年代にかけて都市計画・団地造成で、山を崩し、山が無くなり、地域の景観が一変していきます。 地域の人々は開発の中、先人達が山の恵みに感謝し畏敬の念で建立していた石碑を捨てる事無く、道端や公園の一か所に建立しました。
先人達が山の恵みに感謝し畏敬の念で建立した石碑
中山山の神公園 仙台市青葉区中山2丁目102-68【山神】
昭和59年3月31日開園
北山霊園 仙台市青葉区北山2丁目10-1【山神】
神社、寺院の境内にその地域の人々が山神社の祭神・木花之佐久夜毘売の御加護を願い、厚い信仰をしており、参拝記念に建立して、遥拝した信仰の足跡です。
【榴岡天満宮】 仙台市宮城野区榴ヶ岡105-3鎮座
「山神」「小牛田」「嘉永3年」「二日町女講中」10人位の氏名が刻まれた石碑1基
【舞臺八幡神社・蛸薬師如来】 仙台市太白区長町4丁目
「山神」「小牛田」「長町」「文化6年 女講中」「大正8年」
【旅立稲荷神社】 仙台市若林区若林2丁目
「山神」「文政4年」「明治9年」
県内でも登米市中田町は特に信仰の篤い地域です。それは、町内の講の総数149の内79と、実に半数以上が山神講であることからも伺えます(「平成16年 行政区毎の講の調査」による)
その地域の石森字桑代の人々は、山神社に代参、そして、八幡様の境内地の山神の石碑に参拝。その後、桑代集会所に集まり、【掛軸】【赤子を抱いた御姿の依代】【婦人講中の御札】【神恩感謝の御供物】を供え、御加護に感謝、そして各々の祈願成就を願います。
宮城県登米市中田町石森字桑代【山神】
宮城県石巻市大瓜字八津山【お堂の中の祠と御神体】(令和3年撮影)
本木利茂さん(72)の曽祖父勇士さんが建立したお堂の中に「仏像」「お軸」「祠」が祀られていました。
それは神仏習合の時代を物語っています。
宮城県気仙沼市本吉町下川内鎮座
【山神社・寛政12年勧請と伝わる。写真は大正12年建立】
岩手県大船渡市赤崎町字長崎【祠と山神社お札、昭和43年に建立】(令和3年撮影)
岩手県奥州市水沢に鎮座【山神社】
岩手県一関市赤萩字笹谷【祠と奉納されたおまくら(両脇)】
この地域の婦人たちは、昭和60年まで代参していた。その後は個人で参拝するようになった
岩手県奥州市水沢羽田町外浦鎮座【山の神神社】
北海道士別市東8条北1丁目九十九山【士別山神社】
「士別神社公式ホームページ・境内社・碑」より抜粋
由緒古く明治35年、宮城県小牛田山神社を崇める屯田兵夫人方によりご創祀。
安産の神の御霊徳のほか造材木材関係の人々や登山家の守護神として信仰されています。平成5年北町地区の同様の山神講御神座を合祀。住吉鳥居と玉垣に囲まれ、1月12日士別地区林産協同組合主催で例祭が行われます。